フィジカルAIのリアル
フィジカルAIのリアル
2026年11月4日
手技の可視化を目的に誕生した手技AI解析ソリューション「SHUGY」。その役割は開発の過程で進化を遂げ、事前・作業中・事後の全ライフサイクルを支える存在へ広がりを見せている。事故やミスの予防から熟練技能の“真の標準化”、さらにはさまざまな産業へ広がる「フィジカルAI」の展望まで。ソリューションが切り開く現場革新の全貌とは。
前編では、再生医療や創薬の現場における「暗黙知」の課題に対して、日立グループ3社が互いの強みを持ち寄り結集した「One Hitachi」の開発秘話、そして気流と無菌空間を守り抜くハードウェアとAI活用3次元センシング技術を融合させたプロセスを解き明かした。
試行錯誤の末に誕生した手技AI解析ソリューション「SHUGY」は、もともと熟練者の感覚に頼っていた手技(暗黙知)をデータとして可視化して、作業後の検証や標準化(事後評価)に役立てることが目的だった。しかし、開発の過程で手と物体の空間距離情報をリアルタイムで追跡できる3次元センシング技術などが加わって、顧客との協創を重ねる中でその役割は広がりを見せたという。詳細を後編で追った。

SHUGYが現場にもたらす真価は、単なる作業の記録・可視化にとどまらない。事前・作業中・事後という「作業ライフサイクル」全域で、品質と技能継承を支える点にある。では、それぞれのフェーズでどのような変化を現場にもたらすのか。
1つ目は、作業の前段階である「教育・トレーニング」現場だ。従来の作業教育は、文章のマニュアルや2次元動画で学ぶか、指導者が付きっきりで教える方式が主流だった。しかし、これでは「ゆっくり、または素早く振る」「少し傾ける」といった微細なニュアンスは伝わり切らず、熟練者の貴重な作業時間が奪われる課題があった。日立製作所の池田直仁は、SHUGYがもたらす新しい教育アプローチをこう説明する。
「SHUGYは熟練者の手や器具の動きを3次元の時系列姿勢データとして蓄積しています。例えばこのデータをXR技術と連携させることで、作業者の目の前に熟練者の3次元の手の軌跡を忠実に再現できるのです。作業者は浮かび上がった“お手本”に自身の手を重ね合わせることで、まるで二人羽織のように正しい手技を身体に染み込ませることが可能です。また3次元データなので、熟練者の手技を見たい角度から観察することもできます」
これによって指導者が立ち会わなくても高精度な反復練習ができるほか、気流を乱す動作のスコアリング判定など教育の高速化と自主学習環境の構築も可能とした。
2つ目は作業中のミスの予防だ。典型例に、コンタミネーション(落下菌汚染など)の防止がある。ふたが開いたフラスコの上を作業者の手が横切ると、手から落ちた微小な粉じんや落下菌によって培養液が汚染される。「映像を記録するだけでは事後の確認にしかならず、解決できない」と、日立プラントサービスの蒲生弘行は語る。
「単なる映像記録の場合、1週間後に培養が失敗した際、過去の録画を巻き戻して見て初めて『ここでフラスコの上を手が通っていた』という原因が判明する『事後確認』にしかなりませんでした。しかし、手と対象物の空間距離をリアルタイムで計測できるSHUGYのフィジカルAI技術を使って、ミスを『予防』する次元へとソリューションを昇華させられたのです」
これを技術面で支えているのが、手だけでなく「物体の状態」までリアルタイムで追跡するセンシング技術だ。池田はこう強調する。
「人の手は物を動かす媒体に過ぎず、作業の良しあしの最終基準は対象物(器具)の状態や姿勢にあります。SHUGYは、器具へのマーカー貼付などによってフラスコのふたの開閉状態や器具の傾きを手の動きとともにリアルタイムに認識・計測します。ふたが開いたフラスコの上に手が近づいたり、壁面に手が触れそうになったりすると警告音を鳴らすほか、緑・黄・赤の危険度メーターのモニター表示も可能です。作業者は現場でリスクを察知し、ミスの予防に役立ちます」
SHUGYの開発過程において、製薬会社の現場で興味深い実証実験が行われた。同じ作業マニュアルに従って、熟練度が異なる10人の作業者に同じ培養作業をしてもらい、その手技をSHUGYで解析・データ化した。
「解析データをグラフや数値として可視化してお渡ししたところ、熟練作業者の方が『同じマニュアルでやっているのに、こんなにも手技にばらつきがあったのか』と驚いていたのが印象的でした。これまで数値化されておらず見えていなかった領域が可視化されたことで、初めて『なぜこの人の作業は成功率が高いのか』を解き明かす第一歩を踏み出せたと、大変高い評価を頂きました」(蒲生)
さらにデータの分析を進めると、作業者の経験年数と手の動きが描く軌跡には明確な相関関係が見られた。これについて池田は「経験年数が長い熟練者と日の浅い作業者では、動きの滑らかさや角度に定量的な差が現れた」と明かす。
「興味深いことに、熟練者同士の間でも動きのニュアンスが微妙に異なっており、現場の方が『この作業者は○○さんに教わったのだろう』と推測できるほど、個性や流派のようなものが浮き彫りになりました」(池田)
SHUGYがめざす「作業の標準化」は、特定の熟練者の動きを模倣することではない。池田は「熟練者でも、その動きの中に品質や効率に寄与しない個人的な癖が含まれている可能性がある」と指摘して、こう続ける。
「複数の作業者の手技データを蓄積して最終的な品質や効率との相関関係を解析することで、“熟練のコツ”を可視化できます。SHUGYなら品質を一定に保つための『本当のエッセンス』だけを抽出し、高品質かつ高効率な『真の標準作業モデル』を定量的に構築できると考えています」
こうした手技データが保存されることで、「この製品は規定の手順から逸脱しない手技で作られた」という客観的なエビデンスとしての「作業のトレーサビリティー」も確立できる。これは製薬会社や再生医療事業者が、外部へ品質の確実性を証明する強力な武器になりうる。
安全キャビネットの設計者である日立産機システムの金子健は、この一連の成果が持つ装置の意義を次のように語る。

「安全キャビネットはこれまで、作業者や試料を守るための『隔離装置』としての役割が中心でした。それが今回の取り組みによって、手技という不可視の作業データを蓄積して新しい価値に変換する“デジタライズドアセット”に進化させることができました。ハードウェアの物理性能を超えて、お客さまの品質保証や人財育成に直接貢献できるソリューションに昇華できたことは、長年設計に携わってきた技術者として大きな喜びです」
実際に現場に投入されて、顧客との対話が重ねられる中で新たなニーズも次々と寄せられている。手の動きにとどまらない作業者の「目線計測」や小さな器具の自動追跡など、SHUGYはさらなる機能拡張を見込んでいるという。
手技のデータ化によるイノベーションは、再生医療や創薬などの領域にとどまらない。「マニュアルに書かれた言葉の『行間を読む』という課題は、サイエンスの現場だけでなく、手技が残る多様な産業現場に共通している」と蒲生は力を込める。
「熟練者の高齢化と引退による技能喪失、非熟練者の早期習熟、属人化の排除による品質の均一化といった経営課題の解決――。産業全体が直面しているこれらの深刻な課題に対して、手技の数値化というアプローチが有効な解決策の一つになると考えています」
手の動きの解析から始まったSHUGYの取り組みは、体全体の動きや作業環境全体の統合解析へスコープを拡大している。日立グループは、本技術を創薬・バイオ医薬向けソリューション「HMAX Industry for Biopharma」の機能群の一つとして位置付け、研究開発段階(Lab)から商用生産工場(Fab)へスムーズかつ迅速な立ち上げを支援する戦略を描いている。蒲生は、SHUGYが将来の自動化社会において果たす役割をこう展望する。

「モノづくりの未来像として、ロボットによる完全自動化が存在します。しかし、職人技というアナログの世界と、ロボットというデジタルの世界の間には大きな溝があり、そのままではつなげられません。SHUGYで手技を数値化・データ化することは、熟練者のノウハウを、体系化された知識構造――すなわちオントロジーとして蓄積することを意味します。これによってアナログな手技とデジタルのロボットを結ぶ架け橋になりうると考えています。そして、将来的なロボット自動化に向けた重要なステップになると期待しています」
池田も「直近は安全キャビネット内の計測と事業化に集中しますが、構想は大きく持っています。キャビネット単位での作業最適化からはじめ、周辺作業や設備で取得する情報の連携を起点に前後の工程へとにじみ出て、将来的にはプラント全体の最適化や自動化へ貢献したいと考えています。そのためにも社内外でOne Hitachiの枠をさらに越えて仲間を増やしたいですね」と語る。
現在、製薬会社でのPoC(実証実験)の完了にとどまらず、国立研究開発法人国立がん研究センターとの共同PoCや大学との共同研究契約の推進など、SHUGYを起点としたオープンな協創の輪が急速に広がっている。金子は、笑顔を見せながらこう語る。
「今回の取り組みを通じて、立場も専門も違う3社が集まり、強い情熱を持って一つの壁を乗り越えました。このインタビューを通じて改めて、『日立のエンジニアは本当に面白い』と実感しました。お客さまからの高度な要求を具現化できるよう、これからもまい進します」
蒲生が「プロデューサー」として描いた構想に池田が「研究者」としてAIを活用した先進的技術を注入して、金子が「職人」としてミリ単位の製品へと昇華させたOne Hitachiのイノベーション。手作業の「暗黙知」を可視化し、職人の技とデジタルを結ぶ日立グループのフィジカルAIの探究は日本のモノづくりの可能性をこれからも広げるはずだ。
蒲生弘行(株式会社 日立プラントサービス 執行役員 Lumada事業統括本部 統括本部長 兼 研究開発本部 副本部長)
金子健(株式会社 日立産機システム インフラシステム統括本部 水環境社会システム事業部 クリーンエアシステム設計部 クリーンエア設計グループ 主任技師)
池田直仁(株式会社 日立製作所 研究開発グループ Sustainability Innovation R&D 計測インテグレーションイノベーションセンタ マルチモーダルセンシング研究部 リーダ主任研究員)
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