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第7回|柏崎刈羽原子力発電所 再稼働から始まる新たな安全と信頼の歴史【後編】

第7回|柏崎刈羽原子力発電所 再稼働から始まる新たな安全と信頼の歴史

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動き出した6号機と、7号機再稼働へ向かう人々

東京電力ホールディングス柏崎刈羽原子力発電所を15年ぶりに再訪した松井 康真氏。前編では発電所全体の安全対策の柱について説明を受け、6号機の原子炉建屋内を取材した模様をお届けしました。

後編では、動き出した6号機のタービン建屋と再稼働に向けた準備が進む7号機内部の様子、そして日立の現地事務所を率いる大平 勝弘統括所長の思いに迫ります。

振動と音で発電所が動いていることを実感

 

タービン建屋に入ると、空気は一変する。稼働中の6号機の設備が生み出す大きな音が室内を満たし、振動が床を通じて足に伝わってくる。ここで発生した電気は主変圧器で50万Vまで昇圧され、首都圏へと送られていく。建屋の外にある変圧器からは、内部の鉄心から生じる低い唸り音が絶え間なく発せられていた。
 

「これが電気を送っている音です」と大東副所長から教えられ、松井氏は「振動や音で、発電所が実際に動いていることを実感できるのですね」と感慨深げに話す。

6号機の出力は135万6,000kW(7号機も同出力)、一般家庭45万世帯分に相当する大電力が、ここタービン建屋で生み出されている 6号機の出力は135万6,000kW(7号機も同出力)、一般家庭45万世帯分に相当する大電力が、ここタービン建屋で生み出されている

7号機再稼働へ HPACと安全強化工事

続いて向かった7号機では、建屋内に足場がぎっしりと組み上げられ、さらなる安全強化に向けた工事や安定運転に向けた設備の更新が進められていた。まず案内された高圧代替注水系(HPAC)は、原子炉の停止後も炉内で発生し続ける崩壊熱によって生じる蒸気を利用して小型タービンを回し、その力を利用することで、電源を喪失しても原子炉への注水を継続するための設備である。新規制基準に対応した安全設備として、以前は別の目的で使用されていた狭い空間を利用して据え付けられている。

 

「既設の発電所に新しい安全対策を組み込むには、スペースを捻出する必要があるだけでなく、作業面でも新設工事より手間がかかり、技術的にも難しい作業が多くあります」と大東副所長は話す。原子炉下部では密集した配管1本1本に耐震性強化のためのサポートが溶接されていた。直接目視できない場所は鏡に映して溶接するとの説明を受けた松井氏は、技術者の苦労と困難な仕事でもやり遂げるプライドを感じ取っていた。

高圧代替注水系(HPAC)。緊急時には電気を使わず原子炉に注水を行える 高圧代替注水系(HPAC)。緊急時には電気を使わず原子炉に注水を行える
暗所でも識別しやすいよう蓄光塗料が塗られたハンドルが各所にある 暗所でも識別しやすいよう蓄光塗料が塗られたハンドルが各所にある

放射線管理区域から退出する際には、体表面と持ち込み品の汚染検査と線量計の数値チェックが行われる。検査は問題なし、線量計の数値も0.00ミリシーベルトであることを確認し、6号機と7号機をあとにした松井氏は、取材を終えた感想を次のように話す。

 

「ブローアウトパネルの閉止装置や強制開放装置は、複雑な仕組みに頼り切るのではなく、電源を失っても最後は手動で操作できるようになっていましたね。水素対策一つとっても何重にもバックアップがあり、福島第一原子力発電所事故の教訓の重みをあらためて感じます。また、ケーブル類には耐火性の高い被覆材を巻き直し、手動で操作を行うバルブなどには暗闇でも操作対象とわかるよう蓄光塗料を塗るなど、細部に至るまで妥協しない対策が施されているのを見て、事故を起こさないことはもちろん、起きたときにどう拡大を防ぐかということを深く考えていることがよくわかりました」

日立の現場責任者が語る 再稼働への15年

最後に松井氏は、日立の柏崎刈羽現地事務所の大平 勝弘統括所長にインタビューを行った。2011年より柏崎刈羽原子力発電所の工事管理を担当するようになった大平統括所長。東日本大震災が発生したのはそのすぐ後だった。

 

当時、日立の原子力部門では多くの人員が福島第一原子力発電所の事故対応に協力するため現場に入っており、大平統括所長も「原子力に携わっている以上、何とかしなければならない」とみずから手を挙げ、事故の1週間後に現場へ向かった。任務は外部電源復旧のための仮設ケーブル敷設。送電用の太いケーブルは一人で持てるような重さではなく、大勢が1メートル間隔で並び、担いで運んだ。防護服に全面マスクを着け、線量の制約もあるなかで、作業できたのは3~4時間ほど。その経験が、原子力安全への思いをさらに強めた。

日立GEベルノバニュークリアエナジー柏崎刈羽現地事務所 大平 勝弘統括所長 日立GEベルノバニュークリアエナジー柏崎刈羽現地事務所 大平 勝弘統括所長

震災後、柏崎刈羽原子力発電所では新規制基準への対応工事が始まったが、細部のルール変更などに応じて設計や工事がやり直しになることも多々あった。特に耐震補強工事は施工箇所が多く、補強したい場所に既設設備があるような場合には、解析をやり直し、工程を組み直すことを何度も繰り返した。

「でも、それは安全のために必要なことです。お客さまもわれわれも、なんとしても安全に再稼働させたいという一心で作業と向き合ってきました」と大平統括所長は話す。

「再稼働はゴールではない」 7号機へ続く挑戦 

6号機が再稼働したときの気持ちを尋ねられると、「率直に嬉しかった」と大平統括所長は笑顔を見せる。「東京電力のBWRとして福島第一原子力発電所の事故後初の再稼働でしたし、長く電気を消費する立場として維持されてきた場所が、ようやく発電所に戻ったのです。ですから再稼働はゴールではなくスタートです」。

 

今は7号機の再稼働へ向けて、特重施設の工事や予防保全関連の工事を一つ一つ進めている。再稼働をめざす長い日々、来年こそと言いながら定年退職していく社員も多く、モチベーションの維持に苦労した時期もあった。そんななかで大平統括所長が一緒に働く仲間たちに言い続けているのは、「できない」ではなく、「やるためにはどうすればいいか」を前向きに考えよう、ということ。

 

「われわれの仕事は設備を納めて終わりではありません。保守、メンテナンスを行い、安定運転を支えることもプラントメーカーの責任です。今後はデジタル技術やAIも活用し、少ない人数でより効率的に業務を行う方法をお客さまとの協創活動として開発、実装していくとともに、7号機もできるだけ早く『発電所』にするために、緊張感を絶やさず前向きに取り組んでいきます」

 

6号機と7号機は、同じABWRでも各種機器のメーカーや細部が異なるため、工事は同じようにはいかない。調整と確認を重ねる日々が、まだしばらくは続く。

大平統括所長と松井氏

最後に安全を守るのは人

取材を終えた松井氏は、「15年前にここを訪れたときにはスペースにもゆとりがあった印象ですが、今は追加の安全設備がぎっしり詰め込まれ、だいぶ変わっていましたね」と感想を述べる。2011年、当時勤務していたテレビ局に原子力の専門知識を持つ人材がいないことを危惧した松井氏は、みずから学ぼうと大学時代の伝手を頼り、ここ柏崎刈羽原子力発電所の見学に訪れた。そのわずか1週間ほど後に東日本大震災が発生。松井氏は原子力担当記者として歩み始めることになる。

 

「そうしたゆかりのある場所が、『ようやく発電所に戻った』という大平統括所長の言葉は印象に残りました。何年も何年も対策工事だけを行っていて心が折れても不思議ではないと思うのですが、それをやり遂げた。だからこそ電力を供給できるようになった喜びはひとしおでしょう。タービンの振動や変圧器の音について嬉しそうに説明してくださる大東副所長の様子にも、エネルギーにかかわる方々の矜持を感じました」

 

また、松井氏は6,000人を超える人々が働いていると聞いて驚いたと話す。実際、見学中にも多くの現場作業員の方々とすれ違った。そして、そのたびに気持ちよく挨拶をしてくださるのも印象に残った。

 

「15年前も同じように挨拶をよくしてくださいました。設備は変わっても、人のあり方は変わらない。そのことが確認できたのも収穫でした。どんなに設備面の対策を施しても、最後に安全を守るのは人です。挨拶がしっかり交わされ信頼し合える現場は安全意識も高いはずです。『いい発電所』をめざすという稲垣所長の下、日立も人と技術の力を発揮して、6号機、さらに7号機と、新たに安全と信頼の歴史を築いていくことを期待しています」

サービスホールに展示された、6号機・7号機の炉型であるABWRの模型の前で。 サービスホールに展示された、6号機・7号機の炉型であるABWRの模型の前で。

左から、日立GEベルノバニュークリアエナジー柏崎刈羽現地事務所 大平 勝弘統括所長、松井 康真氏、東京電力ホールディングス柏崎刈羽原子力発電所 大東 正樹副所長

松井 康真 氏
フリーアナウンサー・ジャーナリスト

富山県南砺市(井波町)出身。富山県立高岡高校卒業。東京工業大学(現 東京科学大学)工学部化学工学科卒業。

1986年 テレビ朝日にアナウンサーとして入社。「ミュージックステーション」でタモリさんと組んでMC、
「ニュースステーション」ではスポーツキャスターを担当、「ステーションEYE」、
「ワイドスクランブル」、「やじうまプラス」などで報道情報キャスターとして活躍。
2008年 テレビ朝日アナウンサースクール「アスク」学校長。在職中の2年間の指導で全国に100人以上のアナウンサーが誕生。
2011年3月の東日本大震災を契機にアナウンス部から報道局原発事故担当記者に異動。
その後に宮内庁担当、気象災害担当、コメンテーターを歴任。
2023年 テレビ朝日退社後に個人事務所「OFFICE ユズキ」を設立。
株式会社タミヤ模型史研究顧問、富山県南砺市アンバサダー、株式会社獺祭メディアアドバイザー。

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