2026年2月24日
日立は、フィジカル領域での先端的なAI(Artificial Intelligence)技術によるイノベーションを推進している。フィジカル領域とは、デジタルに対して、人間が触れることのできる現実世界の領域を示す。現在、急速に進展する生成AI技術とロボット技術の融合により、物理世界を認識し制御する「フィジカルAI」が大きな技術的潮流となっている。その中で重要な技術が、物理現象を理解し、推論することが可能な「世界基盤モデル」と呼ばれる新たな生成AIである。これに加え、ロボットや機械の自動プログラミング、図面や物理環境を解釈できる画像向け生成AI、自律進化型のAgentic AI、そしてエッジ向けモデルの小型化や省電力化といった技術進化が相まり、フィジカルAIの適用範囲は拡大しつつある。これによって、現場の労働力不足解消や危険環境での精密作業、さらには経営環境に即応した柔軟な生産計画の変更などが実現されようとしている。
日立におけるAI研究の歴史は古く、1960年代にまで遡る。以来、社会インフラへの適用のために、機械・制御技術や設計・運用のナレッジをAIと融合させる試みが重ねられてきた。日立は、フィジカル領域での長年の蓄積と実績を有している。そして今、Lumada 3.0のさらなる深化に向け、このフィジカルAIへの取り組みを一段と強化している。
日立のAI研究
注:略語説明 OT(Operational Technology)、ATM(Automated Teller Machine)、AR(Augmented Reality)、VR(Virtual Reality)
社会インフラを支える日立ならではのフィジカルAIとは、「実世界の環境変動を取り込みつつ、デジタルとフィジカル全体を自律的に進化させる技術」である。デジタルには大量の情報を用いて全体最適を計画できるという利点がある。しかし、フィジカル領域を対象とする場合には、リアルタイムに生じる環境変化をアジャイルに取り込んで、その都度、最適な計画に更新する必要がある。電力、鉄道、産業などの社会インフラ領域において、デジタルとフィジカルを横断したシステム構築を行ってきた日立は、そこにAIを介在させることで、システムをより適応的かつインテリジェントなものへと変革し、全体が学習機能によって進化する世界をめざしている。具体的には、(1)デジタル-フィジカル協調によるロボットや機械のAI制御、(2)人や社会への危害を防ぐAI安全性担保技術、(3)フィジカル領域特有の暗黙知などを取り込むナレッジ・アップデート技術の3点を注力領域と定めている。
現在の日立は、フィジカルAIの研究開発をリードできるポジションにいる。フィジカル領域へのAI適用には、単なるセンサーデータだけでなく、物理現象や運用条件といった背景を踏まえた推論が不可欠であり、日立には長年の研究開発で蓄積された「四つの知識体系」があるからである。第一に、ベースとして、熱流体や電磁現象といった「物理法則に関する知識」がある。その上に、社会インフラやプロダクトの「設計と制御に関する知識」、そして運用・保守の手順やシミュレータに基づく「実践的な知識」を構築している。さらにそれらの上に、インフラの社会的制約や因果関係など、社会実装をする際に必須となる知識を有している。これらが、実世界でAIを適切に機能させるための基盤となっている。
社会インフラを支える日立ならではのフィジカルAI
これらの知識をAIと統合する取り組みがIWIM(Integrated World Infrastructure Model)である。IWIMは、物理モデルやそれに基づくデジタルツインを学習させた世界基盤モデルと、現場の文書や経験知を学習させたLLM(Large Language Model:大規模言語モデル)の組み合わせで構成される。これにより、AIはデータの統計的な傾向だけでなく、背後にある物理的・運用的な意味を理解したうえで判断を下し、現場の意思決定を高度に支援することが可能となる。
既に現場での活用も始まっている。製造業では、設備の過去データやマニュアルを参照し、故障の予兆や原因を提示するAIエージェントが導入され、熟練度に依存しない保全とダウンタイムの抑制を実現しつつある。また鉄道の運行管理では、トラブル発生時に状況を整理し、復旧案を提示して指令員を支援するAIが稼働している。これらは人が最終判断を行うことで安全性を確保しつつ、業務負荷を軽減する好例である。本分野では、Lumada 3.0を牽引する最先端事例について説明する。
IWIMの概要
経営高度化AI(Artificial Intelligence)は、AIエージェントが収集した現場のコンテキスト情報とマクロトレンドを基に、経営リスクをシミュレーションし、経営者の意思決定を支援する技術である。
現場で捉えられた多数のリスクの兆しや投資の好材料をつなぎ合わせ、重要な経営上の兆候を発見する。例えば、IR(Investor Relations)資料や経済レポートから多数の企業の課題ツリーを分析し、業界のマクロトレンドを抽出するなどの外部データの分析によりシナリオ検討のトピックを選ぶことで、シナリオ検討に必要な異なる専門性(調達、営業、法務、財務など)を持つエージェントを自動で生成し、マルチエージェントシミュレーションで現場のシステミックリスクや投資のチャンスのシナリオを生成する。現場に実装されたAIエージェントをシミュレーションに参加させることで、「景気の肌感」や「リスク選好度」といった現場の一次情報を同期可能である。
こうして生成されたシナリオを基に、ダッシュボードやチャット応答を通じて経営者の意思決定を支援する。
[1]経営リスクシナリオのシミュレーションの概要
注:略語説明 KPI(Key Performance Indicator)
日立は生産計画の最適化やインフラ保守といった機器制御を伴う業務(OT業務)において、生成AIの活用を進めている。OT業務は機器の状態や物理法則、現場のルールに基づいた複雑かつミスが許されない作業が多く、業務の専門知識や判断プロセスを学んだ特化型生成AI(Vertical AI)が求められる。しかし、熟練者の判断プロセスは大量に収集することが難しく、大量のデータで生成AIをファインチューニングする従来技術は必ずしも有効ではない。そこで、少量データを基に生成AIの思考過程をOT業務向けにチューニングする強化学習技術を開発した。
本技術は、正確な生産計画を立てるための思考過程や誤った回答を防ぐための思考過程を生成AIが試行錯誤を通じて学習する。その結果、複雑な推論を行う能力と高い誤回答抑止能力を両立した。業務に求められるさまざまなルールを本技術で学習することで、高い信頼性を要するOT業務において、安全な生成AI活用を促進できる。
[2]OT業務向け強化学習技術の開発とその活用例
注:略語説明 MES(Manufacturing Execution System)、ERP(Enterprise Resource Planning)、OSS(Open Source Software)、RAG(Retrieval-augmented Generation:検索拡張生成)
生成AIの業務適用が進む中で、回答の信頼性確保や、視覚的に構造化された複雑な文書の解釈が依然として大きな課題となっている。従来のシステムではハルシネーションが発生しやすく、またテキスト中心のRAG手法では、図表や複雑なレイアウトが持つ意味を十分に理解できないことが多い。日立の適応型RAGフレームワークは、文書のページ単位でコンテキストを保持することで、構造的および意味的な整合性を損なうことなく、高速で高精度な応答を実現する。
本技術は、ユーザーの意図に応じた戦略的な適応処理を行う。入力された質問が事実確認、分析的解釈、意見、文脈的説明のいずれを必要とするかを識別し、各カテゴリーに対して精度と遅延のバランスを取った最適な処理経路に割り当てる。さらに、マルチモーダルなVLM(Vision-language Model:視覚言語モデル)が視覚要素とテキスト要素を解釈し、モジュール型プラグインが企業の多様なデータに対応するとともに、LLM ベースのリランキングメカニズムが回答候補の関連性を評価する。
こうした統合的アプローチにより、技術マニュアル、研究論文、財務報告書などに対する生成AIの理解力を人間と同等のレベルまで高めることが可能になる。本技術を通じて、研究、エンジニアリング、ビジネス分野における、データに基づいた的確かつ効率的な意思決定を支援する。
[3]適応型RAGフレームワークを利用したコンテキスト認識型のQ&Aプロセス
注:略語説明 DB(Database)
日立製作所研究開発グループは、専門性・信頼性・安全性を備えた高度なAIエージェントの開発・利用・共有・派遣を通じ、日立のカスタマーゼロ戦略を支えるAIエージェント基盤の研究開発を推進している。日立グループの多様なノウハウとスキルを有するエージェントを集約するエコシステムの構築、および大企業の複雑かつ多岐にわたる業務に対応可能なマルチエージェント技術の開発により、AI時代に適合した業務プロセスへの変革と実現に向けて社内検証を進めてきた。これらの取り組みにより、グループ全体の業務効率を向上させるとともに、顧客環境への柔軟なエージェント派遣による価値提供の実現を検討している。
今後、さらなる研究開発と社内適用を通じて成功事例の横展開とエージェントの再利用を促進し、組織を超えたエージェントの共有・派遣によるデータ保護を徹底しつつ、業務効率化と新たな価値創出を加速していく。
[4]AIエージェント基盤のユースケース
戦略立案支援AIは、自治体や省庁、製造業などの組織による新事業や施策について、バックキャスト型の企画立案を支援するAIシステムである。本システムは複数のAIエージェントが連携して企画立案を支援していく。
まず、解決するべき社会課題を策定するため、日立の未来シナリオシミュレータによって導出された社会の未来像を理解する未来シナリオAIエージェントが、現状と未来像のギャップを分析して社会課題を具体化する。次に、社会動向に関する知識を持つ社会課題AIエージェントは社会課題の原因分析を繰り返し行うことで、多数の技術課題を洗い出していく。ユーザーの保有技術を理解したユーザー技術AIエージェントは、それらに対してユーザーの技術による解決案を多数生成する。これにより、新事業や施策の素案が短時間で大量に生成できる。
さらに、生成された解決案を他のAIによって洗練、選別して現実的な案へと練り上げることで、社会課題解決型の新事業や施策の創出が加速される。
[5]戦略立案支援AIの概要と実際の活用イメージ
注:略語説明 CLD(Causal Loop Diagram)
生命保険の引受査定では加入者の健康状態を正確に把握する必要があるが、告知書の記載は一般加入者による自由記述であるため曖昧な表現が多く、自動査定を困難にしていた。日立は、10万人規模のデータを基に200種類以上の検査値や既往症から生活習慣病の入院リスクを予測する「Risk Simulator for Insurance」を開発し、引受査定での活用を進めている。また、自然言語処理による辞書マッチングで告知に記載された病名を標準コードに変換する技術を提供し、自動査定を可能にしたが、辞書の保守に相応のコストが掛かるほか、複雑な文章表現への対応は難しく自動査定率向上には限界があった。
そこで、LLMの文脈理解能力に着目し、病名知識データベースと連携してハルシネーションを抑制する仕組みを開発することで、病名正規化のカバー範囲と精度を飛躍的に向上できる見通しを得た。専門知識と査定業務の知見を活用して生成AIを適切に制御することで、さらなる査定の高度化が期待される。
[6]生命保険向け引受査定エージェント
組織全体でのAI活用拡大や業務変革の実現のためには、組織におけるAIの導入状況や活用の進捗を客観的に診断し、現状を可視化して、具体的な改善策や実行可能なアクションプランを策定する体系的な診断モデルが必要である。
日立は、組織におけるAIの導入・活用状況を体系的に診断し、業務変革の段階的な推進を支援する成熟度モデル「MA-ATRIX(Maturity Assessment and AI Transformation Index; Generative AI Adaptation Roadmap)」をGen-AX株式会社と共同開発し、公開した※)。
MA-ATRIXは、組織のAI導入・活用状況を七つの評価軸×7段階のレベルで体系的に診断する。日立の1,000件以上の生成AIのユースケースと幅広い業務知見に基づいて、評価軸・レベルごとに、達成すべき「ゴール」と行うべき「プラクティス」を定義した。AI活用をPoC(Proof of Concept)から実際の業務成果につなげるための要点を、技術面だけでなく「組織」、「データマネジメント」、「業務への生成AI統合」などの評価軸で総合的に可視化し、継続的な業務変革施策の推進を支援する。
[7]AI活用成熟度の成長イメージ
注:略語説明 BOM(Bill of Materials)、PLM(Product Lifecycle Management)
深刻化する人手不足と熟練者不足の課題に対し、日立は現場拡張メタバースと生成AIを融合した次世代AIエージェント「Frontline Coordinator - Naivy」を開発した。本システムは、現場作業における心理的負担の軽減に加え、作業効率と安全性の向上という喫緊の課題の解決をめざすものである。
特に製造現場では、Naivyは現場の三次元空間情報と熟練者のOTナレッジを統合し、これらの知見を学習する。タブレット上で直感的なナビゲーションを提供するとともに、対話を通じて作業計画の立案、手順確認、トラブルシューティングの支援を行い、作業者を強力にサポートする。
また、Naivyは建設・施工現場における「リスク危険予知(RKY)支援システム」の中核を担うものである。メタバース空間で現場をリアルに再現し、過去の類似事例をAIが解析することで、従来の手法では困難だった高度な危険予知を可能にした。これにより、現場の安全性と効率性が飛躍的に向上することが実証されている。
Naivyは、技能伝承と作業効率化の双方を強力に推進し、現場の「安全知」を進化させ、DX(デジタルトランスフォーメーション)を牽引するとともに、Naivyを通じて現場ナレッジを獲得していく中でIWIM実現に貢献していく。
[8]現場のOTナレッジを構造化・可視化するAIエンジンとアプリケーション群Naivy
熟練者の知識やノウハウの継承が製造現場における大きな課題となる中、日立はOTナレッジを「OTスキル」と「OTデータ」に体系化し、専門業務知識と現場知識を兼ね備えたAIエージェントを開発した。OTスキルとして熟練技術者の用いるSTAMP(System-theoretic Accident Model and Processes)/CAST(Causal Analysis Using System Theory)などの方法論を形式知として用い、思考プロセスを再現した。
また、OTデータとして設備図面や作業履歴、保全記録など現場固有の情報をAI可読化した。これらをナレッジグラフとして統合し、AIにコンテキスト学習させることで、AIエージェントは現場ごとの設備特性や未知の障害にも柔軟に対応できるようになった。ダイキン工業株式会社との実証実験では、高精度(従来比+23%)、短時間(10秒以内)での故障原因推定を実現した。本技術は、IWIMに基づき現場の熟練者知識をデジタルに昇華するものであり、製造業の現場力強化と自律的な業務運用の実現に向けた新たな基盤となることが期待される。
[9]OTナレッジ×AIエージェントの概要
UDL(Unified Data Layer)は、既存のサイロ化された企業データの上に意味理解(セマンティクス)を付与することで、データ移動やシステム変更を伴わずに業務データを横断的に活用できる、Lumada 3.0の進化を支えるAI-Readyなデータ基盤である。米国メリーランド州のHagerstownに新設したHitachi Railの鉄道車両組立工場では、UDLによりサイロ化データを論理的に統合し、意思決定の迅速化とアプリ立ち上げ期間の短縮を実現した。
現在、この成果を足掛かりに、組立工場からメンテナンス工場(デポ)まで適用範囲を段階的に拡大し、これまで分断されていた情報流通を可能にする取り組みを進めている。一方、製造と保守をつなぐには、システム間のデータ定義の差異を吸収するだけでなく、製品ライフサイクル全体で一貫した文脈(コンテキスト)を保つ課題が新たに生じる。UDLは製造・保守をつなぐデジタルスレッドを実現し、鉄道ライフサイクル全体でAI主導のインサイトを活用する新たな可能性を広げる。例えば、デポで得られる外観検査結果や保守履歴を設計・製造へフィードバックし、原因解析の加速や保守性を向上することが期待される。
[10]UDLにより実現する鉄道デジタルスレッド