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沿革:1910~1960

1910-1960 | 1961-1980 | 1981-2000 | 2001-

1910
  • 創業、5馬力誘導電動機を完成。
1911
  • 2kVA変圧器を完成。
1914
  • 交流電流計・電圧計の製作を開始。
1916
  • 10,000馬力水車を完成。
  • 扇風機の製作を開始。
1918

大型ポンプを製作

明治末期から大正にかけて日本では、近代化に向けて電気が動力の主役となっていきます。
日立のポンプ製作は、1918年に日立と合併する前身の東京佃島機械製作所が1907年に製作したのが始まりでした。
日立と合併して亀戸工場となった1918年には、150馬力の大型ポンプを開発し、8台を納入するなど、大型ポンプ製作の礎を築いていきました。
その後も鉱山、土木、上下水道、農業、ビル、工場、家庭向けなど幅広いポンプをつくり続けていきました。

1924

国産初の大型電気機関車

日本最初の鉄道が新橋・横浜間に開通したのは1872年。文明開化のシンボルとなった鉄道は、明治の新しい国づくりを支えながら発達し、1889年に東海道線が全線開通します。1920年に鉄道省が設立され、東海道線の電化計画を立てますが、その頃、国内の大型電気機関車はすべて外国製でした。国産化の使命感に燃えた日立は、全社をあげて大型電気機関車の開発に挑戦し、鉱山用の電気機関車を製造した経験しかない中で、1924年には試験運転を成功させました。このとき開発した「ED15形」が、国産初の大型電気機関車として知られています。
日本で大型電気機関車が製作されたニュースは、当時、米国の新聞でも報道されるほど注目を集めました。その後、日立は電気機関車の納入実績を積み重ね、鉄道車両の技術を磨いていきます。

  • ED15形電気機関車を完成(大型の国産第1号)。
1926

日立製品輸出第1号の扇風機

日立は、大型製品を製作する一方で、1916年(大正5年)頃から量産品として扇風機の商品開発に取り組みました。しかし、首振り機構が難しく運転音がうるさすぎるなど、なかなか商品になりませんでした。
そして、開発開始から10年後の1926年に、ようやく扇風機の量産に成功しました。この年、5,500台を製作し、うち30台を米国に輸出しました。これが、日立製品の輸出第1号となりました。欧米の特許や技術に頼らないで独自に開発した扇風機は輸出面の制約もないので、インドや東南アジアなどにさかんに輸出されました。

1930
  • 柱上変圧器の製作を開始。
1931
  • 10,000A水電解槽を完成。
1932
  • エレベーターの製作を開始。
  • 電気冷蔵庫の第1号を完成。
1933

乗用エレベーター1号機

日立が昇降機の研究開発を始めたのは、創業からまもない1920年のこと。そして1932年にはエレベーターの製造を本格的に始め、翌1933年に乗用エレベーターの1号機を東和アパートに納めました。5人乗りで速度は分速30mでした。

  • 23,600馬力イルグナセットを完成。
1934

東京・金町浄水場に電気系統制御盤を納入

河川などから取り入れた水を浄水場で浄化し、飲料水や生活用水として供給する上水道のシステムが日本で初めて導入されたのは明治時代のこと。生活用水には主に井戸水が使われていましたが、都市部の人口増加に伴い、だんだんと近代水道が整備されていきます。
金町浄水場は、現在の東京都葛飾区、足立区、江戸川区などの東東京エリアを給水区域として1926年に運用を開始し、現在も東京23区のおよそ3分の1のエリアの水をまかなう大規模な浄水場です。当時、工業製品の国産化を推進していた日立は、ポンプと電気設備を金町浄水場に納入。そして、1934年に納入した電気系統制御盤によって設備運転者と配電盤監視者との連携が可能になり、ポンプ設備を効率よく運転できるようになりました。これは、現在の高度な上下水道システムを支える監視制御システムの端緒となった出来事でした。

1936

エスカレーター1号機

エスカレーター1号機は、1936年に、のちに近鉄百貨店となる大阪の大鉄百貨店に納めました。現在のものよりも幅は狭く、欄干(らんかん)にはチーク材、ステップにはベークライトを使用していました。
産業が発展して百貨店や洋食などの新しい文化が花開き、国民生活が豊かになり始めたこの時代、日立の昇降機は街やくらしの近代化を後押ししていました。

日立のディーゼル自動車

1910年代後半に米国の自動車メーカーが流れ作業方式による大量生産を確立し、自動車の大衆化が進みました。日本でも1930年代から国産自動車の開発が本格化しました。当初は、トラックやバスなどが主流でした。
日立は、1931年(昭和6年)に4気筒60馬力ディーゼルエンジンを完成し、自動車メーカーに供給しました。1936年には、ディーゼルバスとトラックを自社開発し、東京の日比谷公園で開催された自動車展に出品して高く評価されました。一時期は国産ディーゼルバスで75%のシェアをとりました。ちなみに、日立のディーゼルバス第1号は、工場間を結ぶ定期バスに利用されました。

1940
  • 5,000回線私設自動交換機を完成。
1943
  • 85,000kWフランシス水車、70,000kVA交流発電機を完成。
1949
  • U05パワーショベル第1号機を完成。
1951
  • 6,500kWカプラン水車・7,000kVA交流発電機を完成(国産初の傘形発電機)。
1952

揚水発電所用の大型ポンプ

日本では、1950年ごろの電気は主にダムによる水力発電でつくられていました。しかし、電力不足による停電がたびたび起きていたため、大型ポンプでくみ上げた水で発電を行う揚水発電により電力を賄いました。
1952年に運転を開始した福島県の只見川に建設された揚水発電所の21,000kW大型ポンプは、当時、国内では最大規模・最大出力の画期的な大型ポンプとして高く評価されました。
その後、日立は、大型ポンプで豊富な実績をあげていき、海外にも認められるようになっていきました。

  • 21,000kW2段タービンポンプを完成。
1953
  • 純低圧式300㎥/h空気分離装置を完成。
  • 55,000kW水素冷却式タービンを完成。
1954
  • 大型ストリップミル国産第1号機を完成。
1955

クロスバー交換機

日本で固定電話加入者が増え始めた1950年代前半。当時、市内通話の接続は自動化されていましたが、市外通話はまだ交換手による手動の接続だったため、接続にはまだ時間がかかっていました。また、当時の自動交換機は、保守が難しいなどの問題点がありました。そこで、国内でも日本電信電話公社により、開発・導入が検討されたのがクロスバー交換機です。
クロスバー交換機とは、縦横に交差(クロス)した金属棒(バー)の交点にスイッチがあり、ダイヤルされた電話番号の情報が伝わると、電磁石の磁力により縦横のバーが接触することで電話がつながる仕組み。日立も自主技術による開発を進め、1955年には電力会社の構内用交換機として第1号が完成。その後、日本電信電話公社との開発により小型化や経済化を実現したC400形交換機は、1960年代後半から電話局への大量導入が進められました。これにより、日本国内の電話需要とサービス向上に貢献してきたのです。

  • 10万kWフランシス水車、93,000kVA交流発電機を完成。
1956
  • DF90形ディーゼル電気機関車を完成(国産初)。
1958
  • 6石トランジスタ超小型ポータブルラジオを完成。
  • ブリュッセル万国博でHS-6型電子顕微鏡・HM-3型電子顕微鏡がグランプリを受賞。
1959
  • HITAC301電子計算機(トランジスタ使用)を完成。
1960

世界初の座席予約システム「MARS」

「みどりの窓口」で知られるチケット予約システムの原型となったのが、1960年に誕生した世界初のオンライン座席予約システム「MARS*(マルス)」です。
当時の日本は高度経済成長期。列車の旅客数は急激に増え、お盆や正月の帰省シーズンには、列車の指定券を求める人々が何時間も駅に並ぶ光景が見られました。予約・発券業務は係員が台帳を使い手作業で行っていたため、さばききれずにトラブルが発生することも少なくありませんでした。この業務をコンピュータ化するため、1960年に国鉄の指導のもと、日立が試行機MARS-1を製作。リアルタイムでの空席情報確認と予約・発券が可能になったのです。
東海道新幹線が開業した1964年にMARS-101が完成し、翌年「みどりの窓口」が国鉄の主要駅に開設。1968年には全国から全列車の座席予約ができるようになり、今では、乗車券・特急券だけでなく定期券やイベント券などの各種きっぷ販売まで幅広く活用されています。

*MARS :Magnetic-electronic Automatic Reservation System
※MARSは、鉄道情報システム株式会社の登録商標です。

世界初の超音波診断装置を開発

外からは見ることのできない体の内部を見る――。そんな医学の夢を、魚群探知機にも使われていた超音波の力で実現したのが、超音波診断装置です。
人体に投射した超音波の反射波を、波形や画像として可視化するこの画期的な医療機器が初めて世に送り出されたのは1960年4月のこと。製品化に成功したのは、主に悪性腫瘍の早期発見をめざして研究開発に取り組んできた日立でした。
当時、日本ではがんによる死亡率が高まり始めており、がんの早期発見のためのX線装置による集団検診も全国的に実施されるようになっていました。こうした中、わが国初の乳腺診断装置となったこの製品の登場によって、人体組織の微細な変化を観察し、さまざまな病気の早期発見を容易にする超音波診断の基礎が確立されたのです。

  • キュービックタイプ冷蔵庫を開発。
  • 国鉄用座席予約システム(MARS-1)が完成。
1910
  • 久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場として発足。
1919

日立工場の大火災

1919年(大正8年)11月14日の早朝、日立工場(現日立事業所)で火災が発生し、主要な製造工場と事務所、倉庫が全焼し、完成品や仕掛品もほとんどが焼けてしまいました。
創業者の小平浪平は、焼けただれた無残な工場を前に、誰もが大きな不安を抱えているのを見て、講堂に全従業員を集め、力強く語りかけました。
「思わぬ大火でほとんど途方に暮れた。いっそ製作事業を止めようかと思わぬでもなかったが、私はこの事業の前途に相当の自信をもっている。皆さんの努力によってこれまでになったのだから、これくらいのことでつまづいてはならない。こんなことで落胆してはならない、と思って、至急復興して営業を続けることにした。今回のことはあまりに順調に発展してきたことで私たちの心に多少ゆるみが出かけていることに対して、天がお灸をすえたのではないか、戒めのお灸だから大いに発奮しなければならない」

1920
  • 日立・亀戸の両工場を擁し、株式会社日立製作所として独立。
1921
  • 日本汽船株式会社より笠戸造船所を譲受、笠戸工場増設。
1923

関東大震災からの復興

1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、相模湾でマグニチュード7.9の大地震が発生し、京浜地区に壊滅的な被害をもたらしました。東京の半分近い世帯が停電となり、有力企業の多くが大きな被害を受けました。そこで、茨城県日立市で目立った被害がなかった日立製作所に、電気機器の注文が殺到しました。
小平は、「わが日立製作所は日本の日立である。この際、われわれは京浜地方の復興を第一の任務とすべきである。みだりに他の地方からの注文を受けて工場をふさいではならない。全工場の全能力を発揮して一日も速やかに復興が図られなければならぬ」と語り、変電設備や変圧器などを増産して首都に向けて急送しました。こうした取り組みによって日立の知名度があがり、全国から大型品の注文が集まるようになりました。

1937
  • 国産工業株式会社を吸収合併、戸塚工場など7工場増設。
1939
  • 多賀工場新設、日立工場より日立研究所独立。
1940
  • 水戸工場新設。
1942
  • 中央研究所新設。
1943
  • 理研真空工業株式会社を吸収合併、茂原工場増設。
1944
  • 亀有工場より清水工場独立。
  • 多賀工場より栃木工場独立。
1946

なべ・かまの生産

1945年(昭和20年)8月15日の終戦ののち、各工場は生産再開に向けて動きだしました。とはいっても、多くの工場が戦災を受けており、かろうじて残った手持ちの資材で鍋・釜や電気コンロなどをつくりました。海水を電気で沸かして貴重な塩をつくった工場もありました。研究所でも、食料難にあえぐ従業員のために、人工甘味料や人造しょうゆ、麹・イーストを製造して配給しました。
やがて、山口県の笠戸工場は貨車や機関車などの鉄道車両の製造を再開、亀有工場はディーゼルエンジンを漁船向けに活用し、戸塚工場は残った部品でラジオをつくるなど、復興に向けたモノづくりを進めました。

1955
  • 10万kWフランシス水車、93,000kVA交流発電機を完成。
1956
  • 日立金属工業株式会社(現 日立金属株式会社)、日立電線株式会社分離独立。
1957

通天閣と日立

大阪のシンボルとして親しまれている通天閣。2016年10月に開業60周年を迎えた現在の建物は2代目です。1912年に建てられた初代通天閣は、戦時中の火事によりやむをえず解体されてしまいました。
戦後、新世界地区の復興が進む中で、地元商店街は資金を出し合って悲願となっていた通天閣の再建にとりかかります。そして、1956年に2代目通天閣が完成しますが、建設費の負担が大きかったことから、その費用をまかなうために広告スポンサーを募集しました。
日立は、ちょうど1956年に白黒テレビ第1号機を発売し、家電事業に本格参入したところ。関西での知名度を高めるよい機会になると、1957年にネオン広告を開始しました。
「日立テレビ」「日立ポンプ」「日立モートル」「日立ランプ」「日立ビデオ」「日立コンピューター」「日立ハイビジョンテレビ」…。ネオンサインは約5年ごとにリニューアルを行い、その時代を代表する製品名やメッセージで浪速の夜空を彩っています。

庶民が憧れた家電品「三種の神器」

日本はめざましい経済復興を遂げ、1953年にはテレビ本放送が始まりました。しかし、当時テレビはまだまだ庶民にとっては高嶺の花。街頭テレビに多くの人々が集まり、野球や相撲、プロレス中継に熱狂しました。
1950年代後半あたりからは、家庭電化製品が登場し始めます。新しい生活文化をもたらし、家事労働の負担を軽減する家電品は庶民の憧れとなり、白黒テレビ・電気冷蔵庫・電気洗濯機は、神話になぞらえて「三種の神器」と呼ばれました。
日立は、1956年に白黒テレビ第1号機を発売。電気冷蔵庫の第1号機は1932年に完成させ、1960年にはキュービックタイプの冷蔵庫を発売しました。そして、1961年には全自動洗濯機を開発、人々の夢をかたちにしてきました。その後も、日立の家電はより便利に使いやすく進化しながら、国内外で豊かな暮らしに貢献し続けています。

  • 日立工場より国分工場独立。
1959
  • 横浜工場新設。
  • トランジスタ研究所を武蔵工場と改称。