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Hitachi Global

沿革:1981~2000

1910-1960 | 1961-1980 | 1981-2000 | 2001-

1982
  • 電子線ホログラフィーによるミクロ領域の磁場観察を世界で初めて実現。

洗濯槽に棒を立てた全自動洗濯機「からまん棒」

1980年ごろ、渦巻式が主流になっていた全自動洗濯機は、技術の進化により、高速で回転する水流を作り出すようになっていました。しかしこれは、洗濯を短時間で行える反面、洗濯物がからんで布地が傷むという課題があったのです。そこで日立は、洗濯槽の中心に棒を立てて別の水流を作り出し、衣類のからみを抑制するという画期的なアイデアを商品化。これが1982年に発売した「からまん棒」シリーズです。
ユニークなネーミングとCMで、「からまん棒」は大きな話題を集めました。当時はまだ2槽式が主流、全自動洗濯機は高級品という位置づけで需要が伸び悩んでいましたが、これにより一気に伸び始めます。この頃から日本人の洗濯習慣が「汚れたから洗う」から「着たから洗う」へ変わり始め洗濯量も増えていき、手間が少ない全自動の人気が高まっていきました。

1983

世界初カラードプラ法を開発

その誕生以来、性能と機能を高め、用途を広げながら“第二の聴診器”と称されるほど普及していった超音波診断装置は、1970年代に入ると、人体組織の変化を診断するだけでなく、動態機能まで診断する装置へと進化することが求められるようになりました。
そして1983年、日立は断層像を観察しながら血流状態を写し出せる装置の製品化に成功します。走行中の救急車が近づくとサイレンの音が高く聞こえ、遠ざかると低く聞こえる、という例でも知られるドプラ効果を利用したこの製品は、リアルタイムで心臓内の血流を画像でとらえる画期的な診断法を実現しました。
その後、カラードプラによる診断法は循環器分野の診断だけでなく、腹部や産婦人科、頭部といった幅広い分野で利用されるようになり、病気の早期発見や予防診断などを通じて、人々の健康にさらに大きな役割を果たすようになりました。

  • スクロール圧縮機搭載空調機の開発。
1984
  • 改良標準型BWR国産第1号機の完成。
  • 256kビットDRAMの量産化。

紙幣還流式ATMの開発

1970年代から80年代にかけて、ATM*はその普及とともに、利用が拡大していきました。当時のATMは、入金した紙幣と出金する紙幣が別々に管理されており、ATMの利用が増加するにつれて、出金用の紙幣の補充や入金された紙幣の回収をこまめに行う必要がありました。それにかかる手間を省くため、入金された紙幣を出金に使う還流式のATMが日本に登場します。
日立は1984年に紙幣還流式ATM(HT-2805)を開発しました。このATMは都市銀行(現メガバンク)や地域銀行など全国に幅広く導入され、ATMにおける現金の運用効率が飛躍的に高まりました。
さらに、日立は世界各国・地域の紙幣に対応した紙幣還流式ATMの開発に取り組みます。そして2000年、国や地域ごとに紙の質やサイズが異なる外国紙幣も取り扱うことができる海外紙幣対応の還流式ATMを開発し、紙幣を機械の中でスムーズに搬送し、正確に識別し、きれいに揃えて積み重ねる高度な技術を備えたATMを実現しました。このATMは中国をはじめインドやASEANなどアジアを中心に世界へ広がっていきました。
この画期的な紙幣還流式ATMは、日本だけでなく海外においてもATM利用者の利便性向上と金融機関の業務効率化に貢献しています。

※ATM:(Automated Teller Machine:現金自動取引装置)

1985
  • 臨界プラズマ試験装置JT-60の完成。
  • 超高精細カラー表示CAD/CAEシステムの開発。

二足歩行ロボットWHL-11

テレビアニメなどでロボットが活躍し始めた1960年代以降、現実の世界でも、人の知能や運動能力の実現をめざしたロボットの研究開発が盛んになりました。日立は、日本のロボット研究のパイオニアとして、産業分野で活躍するアーム形のロボットを次々と開発していきました。そして、アームに続く運動能力として移動能力に着目し、1985年に早稲田大学と共同で二足歩行ロボット「WHL-11」(Waseda Hitachi Leg 11)を開発しました。
WHL-11は、メーカーが参入して開発した第一号の二足歩行ロボットで、電源以外のすべての機能をロボット本体に搭載させた「自立歩行」を実現しました。
1985年に開催された国際科学技術博覧会(略称:科学万博-つくば’85)に展示され、会場において、延べ60km以上という距離を展示に支障となるトラブルもなく歩き続けました。

1986
  • HITAC M-68Xシリーズの完成。
1987
  • 予見ファジィ制御の実用化。
  • カラー液晶投射式大型ディスプレイ装置の完成。

超大型油圧ショベルを開発

1970年代以降、経済や産業の発展に伴って建設プロジェクトが大規模化する中で、より大型の油圧ショベルが求められるようになります。海外の鉱山開発で、坑道を掘らずに地表から掘り下げていく露天掘り工法が普及し始めたことも、油圧ショベルの大型化を後押ししました。
日立は、1979年に重量(運転質量)159tの「UH50」と重量173tの「UH801」を開発し、油圧ショベルの大型化の道を切り開きました。そして、1987年に重量328tの超大型油圧ショベル「EX3500」を開発、鉱山以外にも船上に搭載され、関西国際空港の埋立土砂揚土作業で力を発揮しました。
油圧ショベルの大型化では、油圧機器の大型化や電子制御システムの開発などが課題となりましたが、日立はさまざまな技術でそれらを解決し、信頼性や耐久性を高めました。
その性能が認められた日立の超大型油圧ショベルは、更なる大型化など、モデルチェンジを経ながら、世界の鉱山開発の現場で広く活躍しています。

1988
  • 4脚動歩行ロボットの開発。
1989
  • 世界最高速の超電導コンピュータの開発。
  • 超電導MRイメージング装置の開発。
1990
  • 超大型汎用コンピュータ「HITAC M-880プロセッサグループ」の開発。
  • 高精細TFTカラー液晶ディスプレイの開発。
1991
  • 世界最大容量(狭軌道)インバータ式電気機関車の開発。
  • アバランシェ増倍型撮像管「ハーピコン」の開発。
1992
  • 基幹系500kV変電所システムの完成。
  • 走査トンネル顕微鏡を用いた原子操作・原子配列状態観察基本技術の開発。
1993
  • 高速新幹線電車300系の開発。
  • 単一電子メモリーの室温動作に世界で初めて成功。
  • キャピラリーアレイDNAシーケンサーを開発。

重粒子線がん治療装置「HIMAC」建設に参画

日本人のがんによる死亡率は、1980年代に入ると死亡原因の第1位になりました。こうした背景から、1984年に国が打ち出したのが「第1次対がん10カ年総合戦略」です。その一環として、独立行政法人放射線医学総合研究所(放医研)の重粒子線がん治療装置HIMAC*建設プロジェクトが始まりました。
粒子線治療とは、患部に水素の原子核である陽子や炭素イオンを照射し、がん細胞を破壊・死滅させる治療法。患部の深さに合わせて粒子線の速度を調整することで、ピンポイントで照射することが特徴です。日立は、粒子線の照射に必要な、高エネルギー物理学の実験に用いられる要素機器(加速器、核融合用の電磁石、制御装置など)の設計・製造の技術を求められ、本プロジェクトに参画、主加速器(シンクロトロン)と全体制御装置の開発を担当しました。HIMACは1993年に完成し、翌年には粒子線を用いたがん治療の臨床試験が始まったのです。

*HIMAC:Heavy Ion Medical Accelerator in Chiba
写真提供:量研機構

1994
  • 日立オリジナル32ビットRISC SHマイコンシリーズの開発。
  • クリーンATMの開発。
  • 1GビットDRAMの試作に成功。
1995
  • 超広視野角スーパーTFT液晶ディスプレイを開発。
  • 10Gビット/s光通信装置の開発。
  • 暗号アルゴリズム「MULTI 2」の開発。
1997
  • 4.7GバイトDVD-RAM基本技術の開発。
  • 心臓疾患検査用心磁計測技術の開発。
  • ガン治療用小型陽子線加速器の開発。

近赤外光による指静脈の撮影に成功

本人であることを確認するために、指紋や目の虹彩(こうさい)など、その人の身体的な特徴を情報として利用するのが生体認証技術です。 “セキュリティ”という概念が広く認知され始めた1990年代、日立は新しい生体認証技術の開発に着手しました。それが、生体に近赤外光をあてて撮影すると静脈が暗く映るという特性をいかした指静脈認証技術です。
これは、近赤外光を用いて撮影した画像から静脈のパターンを抽出し、あらかじめ登録したものと照合することで本人を認証する仕組み。研究の始まった1997年に静脈の撮影に成功しましたが、実用化に向けては多くのハードルが予想されました。しかし、偽造やなりすましが極めて困難であることや、認証の精度が非常に高いという点から、積極的に研究を進めたのです。

1998
  • 320Gビット/s光波長多重伝送システムの開発。
  • PAM制御方式冷蔵庫・エアコンの開発。

情報統合型生産システム

1995年のウルグアイ・ラウンド合意により、関税の段階的な引き下げが実施されるようになると、日本の食品業界は「貿易自由化の波」の影響を大きく受けることになります。
例えば乳業では、輸入製品との競争を前に、政府主導で日本の乳業の競争力を強化しようと乳業施設の整理・統合が進められました。
1998年に運転をスタートさせた雪印乳業株式会社(現・雪印メグミルク株式会社)の京都工場は、当時のこうした流れを受けて建設された大規模工場のひとつです。高い生産能力を持った最新の製造装置を活かしながら、製品の鮮度をより良く保つために同社が導入したのは、日立の「情報統合型生産システム」でした。これにより、受注・生産・物流をネットワークで繋ぎ、工程管理を大幅に効率化。グルメブームの流れから、フレッシュ志向が高まった消費者の要望に応えられる体制を実現しました。
そして、安全な食品へのニーズはますます高まっています。安全・安心な食品を安定的に消費者に届けるため、日立はお客さまとともに、さらなる革新的な統合生産管理システムの実現に取り組んでいます。

1999
  • リチウム二次電池をマンガン系で実用化。
2000
  • 約6.45㎠(1インチ平方)当たり52.5Gビットの垂直磁気記録方式の開発。
  • 分解能49.8ピコメートルのホログラフィー電子顕微鏡の開発。

ハイブリッドカーシステム納入開始

1990年代に入ると、自動車の排気ガスによる環境負荷の低減が世界的な課題になりました。その流れを受け、走行中に排気ガスが一切出ない電気自動車(EV*1)やハイブリッド電気自動車(HEV*2)の導入、つまり自動車の電子化・電動化が急速に進展していきます。
日立は、鉄道分野などで長年培ってきたモーター技術を活かし、これまでのガソリンエンジンを中心とした技術に加え、モーター、インバーター、リチウムイオン電池などによる電動パワートレイン技術の開発を推進。そして、これらのハイブリッドカーシステムの納入を2000年から開始し、さらなる小型化・高効率化を進めてきました。現在も、地球温暖化や大気汚染といった環境問題の解決に向けて、自動車の電動化技術を進化させています。

*1 EV:(Electric Vehicle:電気自動車)
*2 HEV:(Hybrid Electric Vehicle:ハイブリッド電気自動車)

1982

ニューヨーク証券取引所上場

1980年、日立は、米国『フォーチュン』誌が発表する世界の電機メーカーランキングの5位にランクインしました。この年、世界大手の格付け機関である米国スタンダード・アンド・プアーズ社から「AAA」、翌1981年にも米国ムーディーズ社から「Aaa」と、それぞれ最高ランクの格付けを取得しました。高い評価の理由として、「基盤の電気・機械事業と、成長分野のエレクトロニクス事業のバランス経営がしっかりしている」ことがあげられています。
そして1982年4月、ニューヨーク証券取引所に株式を上場しました。ニューヨーク証券取引所の上場規準はたいへん厳しく、審査をクリアして上場することは、世界の有力企業として認められ、信用を得たことのあかしでした。ここに、名実ともに「世界の日立」となったのです。上場の日にはニューヨーク証券取引所の正面玄関に日立の社旗が飾られ、ウォール街にはためきました。

1985
  • 基礎研究所新設。
1991
  • 佐和工場を自動車機器事業部に統合。
  • 勝田工場を素形材事業部に統合、戸塚工場を情報通信システム事業部に統合、那珂工場を計測器事業部に統合。
1992
  • 横浜工場および東海工場をAV機器事業部に統合。
  • 家庭電器、コンピュータおよび電子デバイス担当部門の組織を工場単位から事業部単位へ変更。
1993
  • 半導体設計開発センタ、武蔵工場および高崎工場を半導体事業部に統合。
  • 清水工場を空調システム事業部に統合、中条工場および習志野工場を産業機器事業部に統合。
1994
  • 家電事業本部および情報映像メディア事業部を統合して家電・情報メディア事業本部と改称。
1995
  • 電力・電機、家電・情報メディア、情報および電子部品事業を事業グループとして編成し、併せて研究開発部門の一部と営業部門を事業グループに統合。
  • 株式会社日立家電を吸収合併。
1998
  • 情報グループと家電・情報メディアグループを情報グループ、情報メディアグループおよび家電グループに再編成。
1999
  • 事業グループを再編成し、それぞれを実質的独立会社として運営する経営体制に変更。
2000
  • i.e.ネットサービスグループ新設。
  • Net-PDAベンチャーカンパニー新設。