| 1961 |
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| 1963 | - 265,000kW衝動再熱式クロスコンパウンド式タービンを完成。
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| 1964 | - 東海道新幹線用電車を製作。
- 羽田・浜松町間用モノレールを完成。
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| 1965 | - HITAC5020システムを完成。
- 希土類蛍光体使用19型90度偏向カラーブラウン管を完成。
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純国産技術による第1号の油圧ショベルを開発
高度経済成長期に入った1960年代の日本では、道路・鉄道・港湾・ダムなどの社会インフラや、民間企業の工場やビルなどの産業基盤、住宅の整備が急速に進み、建設工事が急激に増加しました。
増え続ける建設需要に応えるために、建設機械メーカーは製品の性能向上に取り組みます。ショベル(掘削機)では、それまで主流であった機械式から、欧米メーカーが先行していた油圧式への移行が進みました。油圧式は機械式に比べてコンパクトで操作が簡単なうえ、掘削能力やメンテナンス性にも優れていました。
多くのメーカーが欧米メーカーとの技術提携で油圧ショベルを開発する中で、日立は自社での独自開発に挑み、1965年に日本初の純国産技術による油圧ショベル「UH03」を開発。その高い信頼性と優れた操作性が評判となり、世界80か国以上で広く活躍する「日立UHシリーズ」の基礎となりました。UH03は2011年に、一般社団法人日本機械学会から「機械遺産第48号」に認定されています。
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| 1966 |
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| 1967 |
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製鉄所の総合生産技術管理システム
鉄道や自動車、家電製品といった精密機械のみならず、わたしたちの日常には多くの工業製品があふれています。より高品質な製品を、効率よく生産する。製造業のスマート化に向けて鍵を握るのが、現場の機器やシステムを動かす制御技術です。工場などの厳しい環境下でも動作できる耐性と信頼性、多様な技術を駆使して構築された制御システムは製造の現場の中枢を担います。
1967年、日立は、八幡製鐵株式会社(現・新日鐵住金株式会社)の堺製鐵所に大型デジタル計算機HITAC7250を納入。長らく課題だったプラントのリアルタイム制御を可能にしました。その技術は後に、発電制御や電力系統監視制御などの電力分野、列車運行管理などの鉄道分野にも納入されるようになります。1969年、日立は制御システム事業の拡大に向けて、日立市大みか町に専門工場を設置しました。
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| 1968 | - 超高速論理ハイブリッドLSIを開発。
- 制御用電子計算機HIDIC100を完成。
- 300m/min超高層ビル用エレベーターを完成。
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飛行船「キドカラー号」
日立は、1958年に国産第1号となるカラーブラウン管を開発し、カラーテレビ放送が始まった1960年には、21型と17型のカラーテレビを発売しました。カラーテレビは気軽に購入できるものではありませんでしたが、日立は低価格化に挑み、カラーテレビの普及に貢献しました。
さらに、1968年には、赤色が鮮明なブラウン管を採用したテレビは「キドカラー」の名前で販売され、美しいカラー画像が評判となります。
その画期的なカラーテレビをアピールするため、日立は世界に3機しかなかった飛行船をチャーターしました。日立のマークと商品名を記した飛行船「キドカラー号」は、CMソングを流しながら日本の上空を飛び、キドカラーの名を広めました。
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霞が関ビルの国内最高速エレベーター
高度経済成長が続いた1968年、東京都千代田区霞が関に、地上36階、地下3階、高さ147mの「霞が関ビルディング」が完成します。当時、日本一の高さを誇ったこの超高層ビルには、最新の耐震構造や工法、設備などが採用されました。
日立は、その最先端のビルにふさわしい、当時の国内最高速となる分速300mの超高速エレベーターを納入。ビルで働く人はもちろん、最上階の展望回廊からの眺望を楽しもうと、多い日には1日1万人も訪れたという来場者を速く快適に運びました。
霞が関ビルディングをパイオニアとして、その後、超高層ビルが続々と建設されます。昇降機はビルになくてはならない存在となり、日立は最新の技術で、ビルの超高層化を支えました。
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自動車関連技術の拠点を設立
高度成長期真っ只中の1960年代半ば、名神高速道路が開通するなど日本の交通網が次々に整備されていきました。この頃、豊かさの象徴としてカラーテレビ、クーラー、カー(自家用車)が「新・三種の神器」と呼ばれ、そのひとつである自動車が一般家庭に広く普及し、日本は「マイカー時代」を迎えます。
戦前から電装品の開発を行っていた日立は、国内の自動車生産台数が急増していた1968年、茨城県ひたちなか市に佐和工場を設立。自動車関連技術の主要な開発拠点として、電装品、ジェネレータ、カーエアコン、点火プラグといった自動車機部品・機器などを開発してきました。
工場の敷地内には、当時、部品メーカーとしては他社に先駆けて、1周約2kmの本格的なテストコースを開設、現在も製品の安全性を検証するための試験走行が行われています。佐和工場で育まれた安全で快適なクルマづくりの精神は、今日に至るまで脈々と受け継がれているのです。
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| 1969 | - 銀行オンラインシステムを完成。
- オールトランジスタカラーテレビを開発・量産化。
- Lo-D2ウェイスピーカーシステムを開発。
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| 1970 |
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大阪万博「日立グループ館」
1970年に開催された日本万国博覧会、通称「大阪万博」は、「人類の進歩と調和」をテーマに世界77か国が参加、さまざまな展示を行いました。シンボルとしてそびえた「太陽の塔」、米国NASAの「月の石」の展示などが人気を呼び、6,400万人を超える入場者を数えた空前の博覧会となりました。
日立は、万博会場内を周回するモノレールのほか、動く歩道「オートライン」、地域冷暖房システムなどを提供し、未来都市のイメージづくりを支えました。日立が出展したパビリオン「日立グループ館」は、赤い円盤形の建物で、地上と最上階の展望台を結ぶ長さ40mの巨大エスカレーター、2階建て260人乗りの巨大円形エレベーター、レーザー大型ビジョンなどが評判となり、期間中144万人が訪れました。
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SL列車「ポンパ号」
初期のカラーテレビは真空管式で、スイッチを入れても10秒以上映像が出ませんでした。
日立は、1966年に日本で初めて真空管をすべてトランジスタに置き換えた白黒テレビを開発していました。その技術と経験を活かし、1969年に業界初となる19型のオールトランジスタカラーテレビを発売。トランジスタの長所に加え、ブラウン管を電源オフ時に予熱しておくことで、スイッチを「ポン」と入れると「パッ」と映像が出るテレビを実現しました。
この特徴から「ポンパ」のニックネームをつけられた日立のカラーテレビは大ヒット。1970年に日立の家電品を満載した移動ショールームのSL列車「ポンパ号」が全国を巡ったことも、トップシェア獲得に貢献しました。
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| 1971 |
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| 1972 |
東海道・山陽新幹線運転管理システム「COMTRAC」
新幹線の正確で安全な運行を支える列車運行管理システム。1964年に開業した東海道新幹線には、指令員が信号機を遠隔制御して列車の運行を一元管理するシステムが導入されました。ところが、開業当初1000万人ほどだった年間利用者数は5年で約6倍に膨れ上がり、運行本数も急増したため、指令員の負担がどんどん大きくなっていったのです。
そこで国鉄は、列車の進路制御をコンピュータによって自動化するため、東海道・山陽新幹線運転管理システム「COMTRAC*(コムトラック)」の開発を計画しました。開発に共同で取り組んだ日立は、実験システムを構築してテストを繰り返し、1971年に東京新幹線総合指令所に納入。翌年1972年の山陽新幹線岡山開業と同時に導入されました。
その後、改良を重ねながら半世紀近くにわたって新幹線の運行を支え続けているCOMTRAC。そのノウハウは、さまざまな列車運行管理システムへと引き継がれています。
*COMTRAC:Computer-aided Traffic Control System
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| 1973 |
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| 1974 | - 無収差凹面回折格子用数値制御ルーリングエンジンを開発。
- 46万kW国産第1号原子力発電設備を完成。
- 半導体組立の自動化(LSI・トランジスタのワイヤボンディングの自動化)を実現。
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| 1975 | - 高性能伝熱面(サーモエクセル)を開発。
- 日立新型圧延機HC-MILLを開発。
- Mシリーズ大型コンピュータシステムを完成。
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アーク溶接用ロボット「ミスターアロス」
戦後、産業復興の要だった鉄鋼業は、日本の高度経済成長期を経て世界でもトップレベルの生産量を誇るようになります。インフラ設備や自動車といった鉄材を用いた大型機械装置の製造も急成長し、溶接作業のニーズが大きく伸びていきます。一方で、課題となったのが技術者不足でした。なかでも「アーク溶接」は、細い棒先から出る高熱の火花を使って鉄材をつなぎ合わせる難易度の高い仕事。危険な作業環境の上、集中力・持続力が必要だからです。
日立は1975年、世界で初めてマイクロコントローラと近接式磁気センサを搭載した画期的な知能アーク溶接用ロボット「ミスターアロス(Mr. AROS: Arc-welding Robot with Sensor)」を発表。それまで機械では難しいとされていた正確な経路制御、寸法の誤差への適応性なども、巧みに自己修正しながら溶接できるようにしました。この制御技術はその後、適用範囲を広げていき、日本の高度なモノづくりを支えることになります。
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| 1976 |
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| 1977 | - 高速アミノ酸分析計(837型)を開発。
- 新型転換炉原型炉「ふげん」の建設を完成。
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| 1978 | - 高分解能電界放射型電子顕微鏡(分解能世界記録)を開発。
- 固体撮像素子小型カラーカメラの試作を完成。
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| 1979 |
日立製ATMの登場
1969年、日本に現金自動支払機(CD:Cash Dispenser)が登場し、さらに1971年に世界で初めてオンラインCDが導入され、その後普及が進み、同じ金融機関のどの店舗でもCDで現金が引出せるようになりました。また、当時働く人の給料は手渡しが一般的でしたが、金融機関の給与振込サービスが開始されたことで、CDは急速に普及しました。以来、金融機関の窓口業務の機械化・自動化が進んでいきます。
その後、CDに預金機能を加えたATM*が現れました。日立は1979年にATMを開発し、都市銀行(現メガバンク)にて最初のATM(HT-5865)が稼働しました。日立はそれまで金融機関の業務を支えるコンピュータシステムを提供していましたが、金融機関において窓口業務の省力化や利用者の混雑解消を実現するため、総力をあげてATMの開発を成功させました。これが日立のATMの原点となりました。
社会の変化とともに進化を続けるATMは、金融機関と利用者の双方にとっての効率化を実現し、社会全体の生産性を高めることに貢献していきます。
※ATM:(Automated Teller Machine:現金自動取引装置)
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| 1980 |
多目的ロボット「プロセスロボット」
1980年代になると、自動車産業を中心として、日本の製造業はますます大きく発展します。1980年には、日本の国内自動車生産台数は年間1,000万台を越え、米国を抜いて世界一位となりました。そして成長する日本の製造業を支えたのが産業用ロボットです。この頃になると、より多様で難しい作業が可能になった産業用ロボットは、大手メーカーだけでなく、中小企業でも第三の働き手としてなくてはならない存在になりました。
日立は、1979年、日立独自のロボット言語など当時最先端の計算/制御技術と電動モータ駆動方式を搭載した、多関節型多目的ロボット「プロセスロボット(商品名)」を発表。先端部品を変えるだけで多目的な作業が行え、その高度な機能は、日本のモノづくりを支え、日本国内だけでなく海外でも大きな評価を得ました。1980年には製品第1号(写真)を生産発売し、その後、米国企業にOEM(委託者ブランド名による製造)製品として輸出され、GE(General Electric)社とも技術提携を結びました。
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- 北海道・本州間電力連系用300MW交直変換設備の完成。
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